2018年8月12日日曜日

雑記

引っ越し前に家族で写真を撮った。
いろんなものがつらい。
もっと上手い生き方が無かったんだろうか、と考える。

2017年3月18日土曜日

ダンガンロンパV3 (追記あり

ということで終わりましたので感想を書いていきます。

ネタバレありで書くので、未プレイ者はブラウザバックをお願いします。

やってない人は最高に面白いからシリーズ全部やろーね!
焦らずゆっくり楽しみながら、ちゃんと順番に遊ぶんだよ!









2017年1月22日日曜日

どぎめぎインリョクちゃんについて

"3DSDLソフト「どぎめぎインリョクちゃん」レビュー!材料に火が通ってなくてお腹を壊した"
http://sinplelove.jp/blog-entry-4125.html

 

 俺はどぎめぎインリョクちゃんってゲームが好きで、要は海腹川瀬系統の操作難易度の高いゲームなんだけど、このブログのレビューとそれに付いてるコメント見たら吐き気がした。

 このジャンプの操作性にはちゃんと意味があると思っていて、以前ニュースーパーフックガールの時に不満点として挙げたワイヤーアクションなのに空中でのジャンプの挙動の制御が出来てしまう、その点がこの作品ではワイヤーアクションに忠実に、空中での挙動制御がほとんど出来ないようになっている、ということなんだけど、ここでの意見は真逆なんだよね。ワイヤーアクション(このゲームはトランポリンのような、ゴムアクションだろうか?)ではあるけども空中での挙動を操作出来ないから操作性が悪くて駄目だと言われてる。ワイヤーアクションとしては空中での挙動を制御することによって、その重心移動もワイヤーアクションで操作させるという、そこに一つの技術が問われるゲーム性なのに、こうしてただの欠点として切り捨てられると参ってしまう。
 (ちなみにもう一つ言われてるのは矢が連発出来ないという点なんだけど、これは俺もやりにくいなと思った…w)

 これがただ一個人の感想としてなら受け入れられるしそれに対して文句を言う筋合いは無いと思ってるんだけど、遊んでもいないのに何も考えず同調してゲームの評価を決めつける人たち。こいつらこそが悪なんだよ。極めて開発規模の小さく宣伝費用もかけられないようなゲームでこういった印象が付いてしまうことはかなりの痛手だと思う。良さを認めている人もいるんだろうが、残念な限りだ。

 前述したニュースーパーフックガールの操作性も、やはりこういう批判・不満があるからそうなっているんだろうなと改めて感じた。開発がこの点について意識していたかはわからないが、そうならなかった理由は操作性を良くした結果なんだと思う。
 これもゲームの進歩と時代の流れということなんだろう。(時代を語れるほどにゲームやってないですが) ゲームの理念に忠実であっても操作性が悪いと切り捨てられてしまう。他にも山ほどあるんだろうな、俺も気付いていないようなものが。

 よく引き合いに出される海腹川背ですが、このゲームは空中でのジャンプの挙動はほとんど制御出来ません。極端な話、ワイヤーアクションとしては自身が鉛のように重く最低限前後に歩けるだけという、それこそが究極のワイヤーアクションになると思っています。

 考えてみればこれってスペランカーがクソゲー扱いされるのと同じような匂いがする。



それはさておき3DSのどぎめぎインリョクちゃんはワンコインで500円。このように人を選ぶ作品ではありますが、楽しいゲームなので、おすすめですよ!



んで、いろいろ見てたら恥ずかしながらVITAで続編が出てたのは知らなかった!
体験版やってみますか…。

2017年1月21日土曜日

Brothers - A Tale of Two Sons

 プレイ時間は3時間ほど。評価がとても高く、アドベンチャーゲームにおいての昨今のゲーム史を語ると毎度出てくるこのゲームはとても気になっていた。

 まず触れてみて、事前の想像通りに左右のスティックで別々のキャラクターを動かすことはとても直感的ではなく、やりにくいものだった。だがこのゲームはアクションパズルとしてなかなか出来が良く、その独特な操作性への慣れの過程が適度なアクション要素として効果的に機能していた。
 また二人を同時に操作するという特性を活かしたギミックも付け焼き刃ではなく考えられたもので、兄弟で冒険をしているのだという実感を得られる楽しさがあった。

 作品としてのボリュームは控えめだがそのステージは惜しみなく大きく描かれていて、場面の転換で移り変わる壮大な景色は魅力の一つ。ちょっとした小物に触れると兄弟でリアクションが異なっていて、そんなところからも個々の性格の違いと生きているキャラクターとしての表現の巧みさを感じ取ることが出来る。

 次第に習熟してきた操作練度は、右側が弟で左側が兄なんだなと、そう認識して動かせる程度にはなってくる。
ここに来てゲームとして遊ぶこと、キャラクターを操作することの意義が生まれてくる。

 ここから先は実際に遊んでみて欲しい。
ゲームにおけるストーリーテリングのあり方の成功例の一つとして、このゲームはアドベンチャー史に刻まれているのだろう。

2017年1月18日水曜日

Undertaleについて3

またネタバレしてるから白文字にする。







































ここから。


何度もやめようと思いつつ再開して、必ずお前をぶっ殺すという強い意志でプレイできたのはいいんだけど、ストーリー、話の流れがすっぽり頭から抜け落ちてしまった。難易度の高さ、没入感の妨げはここが悪いところなんだよ。だから好きになれない。

このクソ操作性でこの極悪難易度。それでいて信者はGルート自力クリア出来ずに動画を見た人のことをFloweyの理論で貶めて来るんだぜ。 挙句の果てには自力クリア出来ずに動画見た人までもがそれに感化されてこのクソな操作性と極悪難易度を正当化する。マジふざけてんじゃねぇよ。クリアできなかったやつは何なんだよ。自分の意志を持てよクソ野郎。

俺は弱いやつの味方だからクリアできずにプレイ動画を見た人を支持するし、この思想には全くもって賛同できない。特にこのゲームの手先みたいになってるやつは大嫌いだ。 

だが悪意すらこもってるこのゲームの信念と、それを貫き通したことは認める。

大体よお、お前他人に褒められるためにゲームやってるわけじゃないだろう?その内的な部分を批判するなんて、開発者との一対一の対話(ゲームをすること)ならまだしも、第三者に言われる筋合いは無いだろう。

なんつーか、開発者視点に立って物事を考える人って多いよね。俺は徹底的にユーザー視点に立って物事を考えてるつもりだけど、ゲハもそういう類いの話だし。
ユーザーに開発者視点を持たせようとするのって、要は経営者目線を持てってのと同じ話だろう?
俺には承服致しかねるぞ。

ところでゲームの仕組みを利用したループものやメタ展開って、物語の限界を示してしまっているよね。ゲームとしての物語を突き詰めると、こうなってしまうんだよという。先駆者は讃えられるべきだけどそれに乗っかっているだけの物語は可能性を狭めていることを自覚してもらいたい。だけど、と**は良かったよね。あれは可能性を広げている素晴らしい作品だと思うよ。他にもThe Stanley Parableとか、可能性もまだ残されてはいるんだろう。ループものやメタ展開は面白いんだけどね。面白いからこそ乱用するのは良くない。慣れて、物語なんて結局この程度なのかと思われてしまうから。



なんとかSuns倒した。チート使ったけど。回復アイテム増やした。マジで難しすぎてきつい。難易度を自分で調節したってことだよ。まぁそれでも数時間苦戦した。俺としてはこれ以上付き合うつもりは無い。ここまで本気で熱中させられたゲームもなかなか無いけど。この苦戦が最高の体験に繋がるとは考え難いな。適度に苦戦して進めるくらいがいい。Gルートはソウルシリーズよりも難しい。


ここまで。

2017年1月17日火曜日

Undertaleについて2

引き続きネタバレなので白文字にしておく。








































ここから↓


クッソ難易度高くして攻略のハードル上げて偉そうなこと言ってんじゃねーよバーカ!!!!!!!!


はい、これだけ言いたかった。

十分楽しんだし面白いゲームだとは思ったけど、Gルート自力で改めてクリアしようとしたら難しすぎて腹立った。

言ってる内容はまだしもこれだと大往生裏2周目くらいの難易度用意しても同じこと言えるじゃねーか。

いやこのゲームのボスくらいなら努力で抜けれるって話をしてるんじゃねーよ。

ゲームの腕だって個人差があるだろうが。

大体回復アイテムやら武器やら取り逃して進んだから戻れなくてより厳しい状況でやらされるのにもムカついた。 

なんとかUndyne the Undyingは倒したがこの先やる気がしねぇ。

クリアできないからクソゲー!って言われてもおかしくないだろう。

この難易度で、このシナリオで、批判がほとんど無くて絶賛レビューばかりなのはおかしい。

俺もそうだったがPルートまでしかやってない人(そこまででレビューを書いた人)は大量にいるはずだ。 

シナリオ的には同系統の某***とかいうゲームだって批判されてたが同じ批判はあってもおかしくない。(どっかにはあるのかもしれない)

雰囲気に飲まれて感化されるんじゃねぇ!

抗え!!!!!!






以上。


PS:

(何故か白文字に出来なかったからネタバレ注意)





steamのおすすめしませんのところを見てきたらやっぱりいた。
だけどそれに対する否定的な投票の率が高い。
俺はそれも一つの正当な評価だと思うんだが、まぁそういうゲームだからな…。 
そこがこのゲームの嫌いなところなんだが。 (全体的にはいい作品だし好き)
というか、この尖っているところがいいところなのに万人が楽しめるっていうのはちょっと違うような気がする。
Pルートまでは問題なく楽しめる。

2017年1月15日日曜日

人にものを勧めるということについて

私は人に何かを勧める際、自身の感想を極力排して勧めたいと思っている。だから、簡素な言葉で、"面白い"だとか"楽しい"だとか、それ以上の言葉は費やさないようにすることがある。

それに対して、自身の感想に重きを置いて勧めているものは、俗に言う人を選ぶもの、または私が個人的にその体験をとても気に入ったものである。
そういったものには偏見(偏愛)に満ちた感情的なレビューを書き連ねるようにしている。私がそれをより強くアピールしたい(自分自身ではなく、この作品を)と思ったためにそう行動している。
何故なら簡素な言葉では人には届かないからだ。



またこれらは場所を変えて書くよう心掛けている。(私にも名誉欲はあり、自己顕示欲もあり、自分自身の体験に価値があるのだと信じたいがためにも、厳格にそれを実行しているとは言い難い)

その場所は、第一に多くの人に受け入れられるだろうと思える作品は、ついったーのような不特定多数の人間が見る場での簡素な発言に留めるようにしている。

対して極私的な、個人的な体験を話したいと思える作品は、より私的な場ーー例えばブログ、読書メーターやsteamのレビューなどーーに投稿するようにしている。(どうにも近頃のついったーは私的というよりは公共の場といったような印象が強くなってしまっている)レビューを私的な場と言うのはおかしいかもしれないが、私はブログに個人的な感想を書くのと同じ意識で書いている。より目を通される場に置いたというだけの。

そういったレビューは、公平性の求められる雑誌のレビューでもないので私的な体験を書いても構わないと思っている。
それは単なる規格的な工業製品を評価しているのではなく、個人の得られた体験を評価する以上、私見を一切排するようなことは不可能であるからだ。
それ故にあえて公平さを欠いた感情的なレビューにも十二分に価値がある。

ただこれらは心構えの話で、前述したように厳格に守っているものではない。どうしても個人的な体験をみなに話したくなることもある。あまり話したくならないようなこと、またネタバレに繋がるようなことは場を分けている。



さてこの話を通して私が主張したいこと、一番重要なことは、作品に触れる際、極論を言えば何の情報にも触れるべきでは無いということだ。作者の想定した範囲での情報以外、何も知るべきではない。より自然な体験を得るためには、フラットな状態でそれに触れるべきなのである。
何らかの情報を得ることは、それだけ針がどちらかに傾くということで、作品外の要素でどちらかに傾くことは、偏見を助長し、頭の中にイメージを作り上げ、作品からのインプットで構築されるはずだった世界観を阻害する要因の一つになりかねない。

それでもあえて私が個人的な体験を人に話そうとする理由は、そうでもしないと知らない作品に触れてもらえないからだ。
この情報過多の社会の中で、全く知らない作品をただ面白いと一言言っただけでは何も注目してもらえない。
一定の評価を得ているメジャーな作品であればそういった言葉も必要ない。私はただ面白かったと言うだけだ。

だがマイナーな作品がより多くの人の目に止まるためには、より大きな声を出さなければいけない。本来余分な知識は入れるべきではないのだが、数が少ない分より多くの情報を詰め込まなければ埋もれてしまう。体験の一部を前借りしてでもより強くアピールする必要性がある。



先日レンタルショップでの中身を知らずに借りようというキャンペーンをふと目にしたが、☆いくつ以上で面白さは保証しているよというものであった。この面白さの保証は余計な不純物だと思う。(プロモーション上仕方ない面も理解はするが、面白さを保証するという情報はいらなかった。面白いかどうかもわからないが、実は☆いくつ以上の作品しかないという話ならこのキャンペーンの意義を貫き通していたと思う)

それよりも私は小説の序文だけを並べるキャンペーンを支持する。この観点からすると、これは公平で、ほぼ理想的なキャンペーンだと思う。作者がそこにどれだけ力を入れているかどうかがわからないという点には留意すべきだが。



人間に寿命というものが無ければ、時間が無限にあればレビュー・評論・批評と言ったものは必要が無くなる。全ての作品に触れることが出来たならば、他人の評価は一切必要が無くなるからだ。残るものはより深く作品について知るための考察。それも必要があるのかどうか。自身の体験を一番と考えた時、それらは無意味で無価値なものに転ずる。社会における作品の立ち位置を示すために、批評というものは存在するのかもしれない。

いずれにしろ、自分自身の体験にとって、それらのものは全く不要なものだ。
あなたは、自身の体験を信頼し、価値を認め、それ以外のものを無意味だと断ずることが出来る。100人中100人がつまらないものだと判断しても、あなただけが面白いと思えばそれはあなたにとって面白いものだという事実は永遠不変の理だ。

"面白い"という言葉の良さはここにある。面白いという言葉は、みなも知っての通り、様々な意味を込めて使われている。"面白さ"は様々な尺度を持っている。悲喜こもごもをみな面白いという言葉で表現してしまう。だが、それら全てを含めてポジティブな感想であることには違いないだろう。ポジティブな感想を持ったという、それだけを伝える言葉として、"面白い"という言葉はとても優秀だ。

これまでに言った通り、それ以外の情報というのは他者にとって楽しむための障壁で、有害であり不必要なものである。特定の作品だけでなく、全ての作品で余計な事前知識は省くことによって、より純粋に近い体験を成すことが出来る。完全なる純粋な体験というのは、それこそ何も知らなかった子供の頃でしか成立しないであろう。それは、何者にも変えがたいとても貴重な体験だったはずだ。いわゆる原体験は、それを上回ることは不可能であると言ってもいいだろう。



私たちは時間を無駄にしないためにレビューを読む。口コミを訊く。評価を知る。しかし知り得た情報だけ純粋な体験からは遠ざかって行く。時間を無駄にしないために行なっているその行為こそが、実はもっとも時間を無駄に浪費している行為なのかもしれない。