2012年12月27日木曜日

起きる夢を見ている。

 夢を見た。幾度となく起きて、また起きる。醒めることのないマトリョーシカの夢を見た。 



 私は布団に横たわる体を起こそうとした。
意識は覚醒し、腕が動く。上体を捻り、横に手を突き、体を起こし、床に足を下ろし立ち上がり
私は布団に横たわる体を起こそうとした。
意識は覚醒し、腕が動く。上体を捻り、横に手を突き、体を起こし、床に足を付け立ち上がり
私は布団に横たわる体を起こそうとした。
意識は覚醒し、腕が動く。上体を捻り、横に手を突き、体を起こし、床に足を

 布団の上の私は、金縛りに遭っていた。首元に手を乗せられている感覚がある。全身は楔を打たれたように身動きが取れない。首元の手が少しずつ締められて行く。

 金縛りについては過去の経験から学んでいる。抵抗せずに過ぎ去るのを待てば良い。怖いものなど何も無い。徐々に締まるそれはただの布団だ。意識は覚醒したが、まだ体が眠っている。先程とは逆の状態になっている。  

 首元の手が少しずつ緩められて行く。体が眠りから醒めた私は布団に横たわる体を起こそうとした。意識は覚醒していた。体も覚醒し、腕が動く。上体を捻り、横に手を突き、体を起こし、床に足を付け立ち上がり 
私は布団の中で寝ていた。眠気に侵され覚束ない頭で思考を巡らす。
仄かに浮かぶ疑問は起きようとする意志に打ち消され、 曖昧な頭は繰り返し、歯止めの効かない体と共に、起きては起きる作業を繰り返した。

 部屋の景色は形だけが存在し、色の無い透明さの向こうにはただ真っ白な空間がどこまでも続いている。

 永遠とも思える繰り返しにも終わりは来た視界に色が付き部屋は輪郭を取り戻した。体は布団に横たわっている。 
  
 意識は覚醒し、色の付いた視界は取り戻したが、妙にふわふわとした現実味の無い体がある。   

 起き上がり布団を抜け出した私は、居間のテーブルで朝ご飯のパンを見つけ、それを持って布団に戻ってきた。パンは自室のテーブルに置いた。朝の冷気は纏わり付くように冷たく、私は再び布団の中に入ろうとした。  



 そして私は今布団の中にいる。意識は覚醒し、色の付いた視界は取り戻した。妙にふわふわとした現実味の無い体がある。私の夢は醒めているのだろうか

2012年11月8日木曜日

或る夜の出来事

布団に寝そべり意識は朦朧。耐え難い眠気に見るともつかぬ虚空を眺めると、聞こえてくるは羽虫の音。


羽虫はジィジィと羽ばたき壁をコツコツ叩きながら天地が引っくり返ったとばかりに天井を転げ回り、おちおち寝てもいられない。いつ力尽き顔の上に墜ちて来るともしれない。 心が落ち着かない。


どうにか平穏無事な睡眠を妨げられぬよう羽虫を捕らえるためにと抗い難い眠気に抗い体を動かそうとするが、まるで杭に打ち付けられたかのように腕が動かない。脚が動かない。首が回らない。


羽虫の軌道は光を残す。コツコツと小気味良いリズムに合わせて跳ねるように踊る半円形。薄い意識はとうにリズムと動きに支配され、それが何かは蚊帳の外。羽虫は果たして蚊だろうか。


あぁこの残光はかつて花火を手に持ち闇に描いた軌道と似ているなぁと思うが止まる、羽虫の音。雲が晴れ渡り青空が見えてくる。青空はいつもの部屋の天井だった。


布団に寝そべり意識は明瞭。そばだてた耳にはもう届かない。羽虫の音は夢幻に消え果てた。或る夜の出来事。

2012年11月1日木曜日

物語に操られている

 極私的で重大なことに気が付いた。それというのも俺が小説読んでる時にどう読んでいるのかと考えていて、それは頭の中を空っぽにしてそこに小説の言葉を流し込んで物語を動かしている。
 つまり自らが操り人形となり小説がその繰り手となるような読み方をしてるのではないかと考えた。


 これはどういうことかと言うと、操られるがままの俺こと操り人形は、物語の全体像を掴むわけではなく今自分がどう動かされたか、其れ即ち小説での全体の流れではない場面ごとの心理の動き、今自分がどういうポーズを取っているか、其れ即ち小説のある一つの決定的な瞬間での気持ちや情景描写、そういった刹那的なものでしか理解していないということである。これから何が起こるかこれまでに何が起こってこういう結果に至ったかという思考が抜け落ちてしまっているという重大な欠点を抱えていることを自覚した。


 自分の感想と、読んでいて思わず感心するような他人の感想を比べて実感した違いは、まず他人のそれは登場人物の信条やその一貫性を評価していることが多々あるということである。しかし俺は登場人物の信条を意識していること自体がほとんど無い。登場人物の一貫性に注意を払うことも無い。その他人は小説を読むとその文章から要素を掻い摘み頭の中に生き写しのキャラクターを作り出しそれを物語として活躍させているのだろうが、俺はただの小説による操り人形になっているだけだ。操り人形は突飛な動きをさせられても何も疑問に思うことは無い。突飛な動きが面白い動きであったならばそれを褒め聳やかす程度の脳しか持ち合わせていない。
 だがこれにも利点はある。それこそが利点になり得る。その利点というのはたとえ一貫性のない登場人物であったとしても物語を楽しめるということである。いわゆる幻想小説のような行動や風景を理屈で解釈出来ない作品であっても漂う雰囲気と刹那的な描写で楽しめるのだ。
 総ずると利点にもなり得るこの読み方だが欠点もある。よって読み方の意識を変える必要性がある。一貫したテーマがある作品でそのテーマにそぐわない行動を取るのはナンセンスだ。そういうナンセンスな作品を評価するのではまだ読み方が甘い。頭の中でキャラクターを躍動させ物語を展開させるのだ。

 他にもなんかあるような気がするけど疲れた。終わる。


 次はほしい物リストにまとめてるおすすめの作品と簡単な感想をブログにまとめる。アフィでも無いし住所も登録してないから何も利益は無いんだけど、ほしい物リストを利用している時点で気が引けてしまうし、作って放置も勿体無いからそれならジャンルごとにブログにまとめればいいと思ったのでやってみることにした。更新時期は未定。

2012年1月14日土曜日

書評:おれはミサイル

おれはミサイル 著者:秋山 瑞人 (ゼロ年代SF傑作選収録)





ミサイルの気持ちを考えてみましょう、と聞かれて一体どんな答えが思い浮かぶだろうか。
これは戦闘機とミサイルに魂が宿り、意志を持ち、行動する物語である。

短編でありながらも舞台設定はおざなりにされてはいない。直接の言及は無いが、言葉の端々に表れる前世界の名残というか残滓から、この世界の成り立ちや現在の状況を想像することが出来る。
この想像に実にSFらしい楽しみがある。読者はその作品の幅に収まらない、それ以上に広がる世界を想像し得る。

そしてこの世界に生きる戦闘機とミサイルがその死生観を披瀝する。対立する二種類のミサイルの価値観。それを聞き、その生き様を見て、戦闘機は何を思うか。

また白眉な文章も見所の一つ。戦闘機の稼動状況を、仕組みを知らずともイメージしやすい形に喩えて表現し、大空の光景は瑞々しい筆致で眼前に展開される。

氏の作品で表すと、イリヤの空よりも猫の地球儀に近い作風だろう。猫の地球儀での地球儀の役割がグランドクラッターに置き換わっている。
しかし地球儀は憧れの対象であったのに比べ、グランドクラッターは都市伝説のようなものである。
猫の地球儀は浪漫を追い求めてせめぎ合い奔走する活力の漲る作品であるのに比べ、おれはミサイルは文字通り無限に広がる大空が舞台なのに、あてどもなく不毛に彷徨い刹那的で終わりなき終わりがただ見えるのみである。
読了後にはきっとミサイルの刹那的な生き様に感傷を憶え、またそれを見つめる戦闘機の哀愁を感じ取り得るだろう。