2017年1月15日日曜日

人にものを勧めるということについて

私は人に何かを勧める際、自身の感想を極力排して勧めたいと思っている。だから、簡素な言葉で、"面白い"だとか"楽しい"だとか、それ以上の言葉は費やさないようにすることがある。

それに対して、自身の感想に重きを置いて勧めているものは、俗に言う人を選ぶもの、または私が個人的にその体験をとても気に入ったものである。
そういったものには偏見(偏愛)に満ちた感情的なレビューを書き連ねるようにしている。私がそれをより強くアピールしたい(自分自身ではなく、この作品を)と思ったためにそう行動している。
何故なら簡素な言葉では人には届かないからだ。



またこれらは場所を変えて書くよう心掛けている。(私にも名誉欲はあり、自己顕示欲もあり、自分自身の体験に価値があるのだと信じたいがためにも、厳格にそれを実行しているとは言い難い)

その場所は、第一に多くの人に受け入れられるだろうと思える作品は、ついったーのような不特定多数の人間が見る場での簡素な発言に留めるようにしている。

対して極私的な、個人的な体験を話したいと思える作品は、より私的な場ーー例えばブログ、読書メーターやsteamのレビューなどーーに投稿するようにしている。(どうにも近頃のついったーは私的というよりは公共の場といったような印象が強くなってしまっている)レビューを私的な場と言うのはおかしいかもしれないが、私はブログに個人的な感想を書くのと同じ意識で書いている。より目を通される場に置いたというだけの。

そういったレビューは、公平性の求められる雑誌のレビューでもないので私的な体験を書いても構わないと思っている。
それは単なる規格的な工業製品を評価しているのではなく、個人の得られた体験を評価する以上、私見を一切排するようなことは不可能であるからだ。
それ故にあえて公平さを欠いた感情的なレビューにも十二分に価値がある。

ただこれらは心構えの話で、前述したように厳格に守っているものではない。どうしても個人的な体験をみなに話したくなることもある。あまり話したくならないようなこと、またネタバレに繋がるようなことは場を分けている。



さてこの話を通して私が主張したいこと、一番重要なことは、作品に触れる際、極論を言えば何の情報にも触れるべきでは無いということだ。作者の想定した範囲での情報以外、何も知るべきではない。より自然な体験を得るためには、フラットな状態でそれに触れるべきなのである。
何らかの情報を得ることは、それだけ針がどちらかに傾くということで、作品外の要素でどちらかに傾くことは、偏見を助長し、頭の中にイメージを作り上げ、作品からのインプットで構築されるはずだった世界観を阻害する要因の一つになりかねない。

それでもあえて私が個人的な体験を人に話そうとする理由は、そうでもしないと知らない作品に触れてもらえないからだ。
この情報過多の社会の中で、全く知らない作品をただ面白いと一言言っただけでは何も注目してもらえない。
一定の評価を得ているメジャーな作品であればそういった言葉も必要ない。私はただ面白かったと言うだけだ。

だがマイナーな作品がより多くの人の目に止まるためには、より大きな声を出さなければいけない。本来余分な知識は入れるべきではないのだが、数が少ない分より多くの情報を詰め込まなければ埋もれてしまう。体験の一部を前借りしてでもより強くアピールする必要性がある。



先日レンタルショップでの中身を知らずに借りようというキャンペーンをふと目にしたが、☆いくつ以上で面白さは保証しているよというものであった。この面白さの保証は余計な不純物だと思う。(プロモーション上仕方ない面も理解はするが、面白さを保証するという情報はいらなかった。面白いかどうかもわからないが、実は☆いくつ以上の作品しかないという話ならこのキャンペーンの意義を貫き通していたと思う)

それよりも私は小説の序文だけを並べるキャンペーンを支持する。この観点からすると、これは公平で、ほぼ理想的なキャンペーンだと思う。作者がそこにどれだけ力を入れているかどうかがわからないという点には留意すべきだが。



人間に寿命というものが無ければ、時間が無限にあればレビュー・評論・批評と言ったものは必要が無くなる。全ての作品に触れることが出来たならば、他人の評価は一切必要が無くなるからだ。残るものはより深く作品について知るための考察。それも必要があるのかどうか。自身の体験を一番と考えた時、それらは無意味で無価値なものに転ずる。社会における作品の立ち位置を示すために、批評というものは存在するのかもしれない。

いずれにしろ、自分自身の体験にとって、それらのものは全く不要なものだ。
あなたは、自身の体験を信頼し、価値を認め、それ以外のものを無意味だと断ずることが出来る。100人中100人がつまらないものだと判断しても、あなただけが面白いと思えばそれはあなたにとって面白いものだという事実は永遠不変の理だ。

"面白い"という言葉の良さはここにある。面白いという言葉は、みなも知っての通り、様々な意味を込めて使われている。"面白さ"は様々な尺度を持っている。悲喜こもごもをみな面白いという言葉で表現してしまう。だが、それら全てを含めてポジティブな感想であることには違いないだろう。ポジティブな感想を持ったという、それだけを伝える言葉として、"面白い"という言葉はとても優秀だ。

これまでに言った通り、それ以外の情報というのは他者にとって楽しむための障壁で、有害であり不必要なものである。特定の作品だけでなく、全ての作品で余計な事前知識は省くことによって、より純粋に近い体験を成すことが出来る。完全なる純粋な体験というのは、それこそ何も知らなかった子供の頃でしか成立しないであろう。それは、何者にも変えがたいとても貴重な体験だったはずだ。いわゆる原体験は、それを上回ることは不可能であると言ってもいいだろう。



私たちは時間を無駄にしないためにレビューを読む。口コミを訊く。評価を知る。しかし知り得た情報だけ純粋な体験からは遠ざかって行く。時間を無駄にしないために行なっているその行為こそが、実はもっとも時間を無駄に浪費している行為なのかもしれない。

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