2017年1月14日土曜日

Undertaleについて、そして懺悔

ネタバレ気にせず書くから未プレイ者はブラウザバックでね。








































結局Gルートはサクッと諦めてプレイ動画を見た。そしたら見事にfloweyに痛烈な批判されちゃったよ。あらまぁ。

しかし、すごいねこのゲーム。RPGをプレイして、こういうことを思ったんだろう?常識としてあるものをこうやって俯瞰して分析して解体して、再構築して作品として作り上げる。パーツを間違えないように組み立てないと、ここまで広く親しまれる作品は作れないと思うよ。子供の頃からRPGをプレイして、思い入れがある人ほど痛切に響くだろう?俺はどちらかと言うと、そこまでのRPG好きではなかった。(PSハード持ってないからRPGに触れる機会が少なかった) けど、RPGはこういうものだという観念は染み付いていたから、こんなメタな視点は持てなかったよ。一つあるとすれば、RPGはどんな作品であろうと敵を倒すだけの物語でしか無いなと、そうふと思ったことはあったがその程度だ。だからその視点からさらにより深く考えて作られたこの作品には頭が下がるよ。


NからPルートをクリアして、Gルートを始めるのに抵抗があったからしばらく置いたことは、結果的に正しい行いだった。それは、この作品のことを考えると必然的にそういう行動を取るようになっている。Gルートに抵抗のある人は他にも多くいたようだ。

改めて再開してGルートをプレイしたのだが、ヒーロー戦で詰まった。装備も回復アイテムも回収が雑だったので弱い。動画と比べるとダメージが1400→1000くらい違った。回復アイテムも店で買えるものしか持ってない。戻って回収するのは面倒だった。だからプレイ動画を見ることにした。

この行為の是非は置いておこう。それにしても難しいゲームだ。バランスの良いゲームだとは思えない。Pルートのボス戦はなかなか心地いい難しさだったが、Gルートのこのボス戦はもはや覚えゲーのガチシューティングだ。レビューだとNからPまでクリアしました!感動した!な人がたくさんいるようで(俺もその中の一人だった) この難易度について触れている人は少なかったが、レビューをするなら一言警告してあげるべきだと思う。そう思って俺は自分のレビューを書き直した。繰り返すがPルートまでは心地いい難易度だった。とは言え同様の問題は発生する恐れがあったし、実際回復アイテムを揃えてなくて泣きそうになったことがあった記憶がある。確か戻って買い直したのかな?多分作り慣れていないからなんだろう、というかテスター不足かな。不親切な部分も無かったわけではない。それらを覆い隠すほどのストーリーテーリングの秀逸さがあるのは認める。だが公平さは必要かな。RPGといいつつかなりの腕のSTG力も要求されてしまう。というか、Temmieの防具はGルートにこそ必要なんじゃ無かったのかな。なんで無かったんだろう…。まぁGルートをクリアさせようとしないガチ難易度にするのは意図的なんだろうけども。だから、この点で批判したくはない。万人に受け入れられる作りにしなくてもいいという、まさにインディーズゲーの良さの一つだろう。間口よりも信念。

さてGルートの続きだが、floweyのセリフに"「ぼくには何が起こるか知る義務があるからやっているだけだ」"というものがあったが、まさにこれだった。プレイは挫折してもぼくには何が起こるか知る義務があるから見ているだけだったのだ。
そしてそれに続けて"こんなぼくらでも何が起こるかただ「観ている」だけの狂人よりはマシだね…"と来たもんだ。
その直前に、Undertaleとは関係のない内容でこの動画を見ながらこんなことを呟いていた。

「ゲームはプレイ動画でもいいと思ってる人だからいわゆるゲーマーとはかなり溝があると思う」

まんまとしてやられたわ。まさかそこでリンクしちゃうとは思わなかったよ。ゲーマーという言葉・概念が嫌いだから、それについて考えていただけなのに、リアルタイムで同期してゲームに批判されてしまった。そこまでリアルに侵食してくるゲームなのかこれは?まぁただの偶然だけど、このプレイ動画を見ていることで思考も影響されていたんだと思う。それに加えてゲーマーとはかくあるべき論をTLで見てしまったから、それについて考えを巡らせていた。

どうだろう、このゲーム、Gルートをクリアしてfloweyの発言を受けた後でも、俺は堂々と、「プレイ動画を見てもいいのだ」と言えるのだろうか?なかなかハードな問いだ。ゲームをプレイすることによって体験の質が変わる作品があるというのは認める。そしてまさにこのゲームこそが、アドベンチャーでありながらもただ見ることを批判している。実はただ見ることに一つの要素を加えたシンプルな作品こそが最も端的に、ただ見ることと体験することの違いというのを表現出来うるのかもしれない。それはPCのエロゲ、アドベンチャーでもしばしば用いられる手法でありメインテーマの一つでもある。一番わかりやすいものでいうと物語に直接的に関わる"選択肢"の話だ。小説とゲームは何が違うのか?それは選択肢の有無にある。選択するという体験は、小説では得られない。ゲームがゲームとしてあるために必要なもの、それを端的に表すものが"選択肢"なのだ。私はそれをよく理解しているからこそ、選択肢の無意味さに過敏で、無意味な選択をする空虚さから逃げるために攻略を見る、プレイ動画を見る…。しかし、真に優れたゲームは選択肢の意味を軽視しない。遊んでくれるプレイヤーに向けて、選択する意味を与えてくれる。それはあなたの体験だから、あなたの選択だから、あなただけの結末を導いてあげるのだと。同じ物語を自動的に再生させても、同じ体験を得ることは出来ない。それこそがゲームの本質である。私はゲームを軽視して、本質から離れてしまっていた。ナルシズムに言えば、ゲームを愛するあまりゲームを軽視する作品に耐え切れなかったのだ。だがそれは間違いだった。真のゲームは私を待ってくれている。本当の体験を、その世界を作り上げてくれている。
私がそうして軽視した結果後悔したゲームは、シュタインズゲート・YU-NO・EVE burst error・スマガなどなど…。シュタゲの嘘エンディング、YU-NOの世界観、EVE burst errorのディスクを利用した謎解き、(スマガはなんか忘れたけど意味があったような気がした。ぶっちゃけ長くてあんま面白くなかったけど、作りとしては優れたものだったと思う。) 他にもたくさんあるはずだが全てを思い出して書くとそれだけで一つのブログが書けてしまいそうだ。
これらはどれも選択の結果としての物語を描いていて、ゲームに対して真摯であった。私はそうではなかった。ゲームとは名ばかりの小説だとばかり思っていた。しばしば揶揄される、紙芝居であると思っていた。

これからは優れたゲームに対しては信頼を置いてみようと思う。自分自身で体験することに価値を見出したい。裏切られることもあるだろうが、それ以上の至福の体験が、そこにあると信じている。


PS:
それでも私はプレイ動画に対して肯定的であるこの姿勢を変えるつもりはない。いくらかの体験の欠落があろうとも、人間の時間が有限で、能力にも限界がある以上、攻略やプレイ動画の視聴は不可避なものであると思っているからだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿